『包帯クラブ』

堤幸彦包帯クラブ(公式サイト)
【評価】★★★★☆


天童荒太原作の同名小説の映画化…といってもまだ読んでません。ドストエフスキー大先生に予想通り手こずってしまって順番待ちの本が山積みで(泣)。本当は原作読んでからと思ったのですが、何と札幌シネマフロンティア、10/5最終というではありませんか!慌てて行ってきました。原作はこれから読みます。


【注意】ここから先は内容に触れています。


なかなか良かったです。〈包帯クラブ〉というのは、「インターネットを利用し「傷ついた出来事をクラブのサイトにて受付ける→傷ついた人の傷ついた場所に包帯を巻きに行く→手当てした風景をデジタルカメラで撮影、投稿者のアドレスに送る」という活動」(公式サイトの説明より引用)。
原作を読んでいないので的外れな解釈になるかも知れませんが書いてみます。まずは「包帯」の象徴するものについて。
作品全体のテーマは「自分が幸せである(になる)ために他人を傷つけなくてはならないという『人間の宿業』に気づいた若者がいかに他人の痛みを理解し、『宿業』と折り合いをつけていくか」ということだと思います(非公式な自己流解釈w)。〈包帯クラブ〉のメンバー達は、依頼人の、あるいは自らの傷を癒すために包帯を用いる。このことから包帯に「癒しの象徴」としての意味が与えられていることは明々白々なのですが、もう一つ、包帯には「他者との繋がりの象徴」としての役割が与えられているような気がします。
包帯クラブ〉の活動においては、包帯はある場所に巻き付けられるだけですが、その様子を写した写真は「ネット」を通じて依頼人に送付されます。つまりクラブの活動においては他者と繋がるための道具は「ネット」なわけです。
一方、最後、ディノがトラウマを乗り越えて「橋」を渡る場面では、包帯はワラとの二人三脚の道具として使われています。クラブの中で最後まで自分の傷を明かさなかったディノと、彼の傷を受けとめるワラとを「繋ぐ」道具として。そう考えると、冒頭の病院の屋上のシーンで、ワラの手首に巻かれた包帯が外れてしまいそれが風にたなびくというカットは、「彼女は他者と繋がることが出来ていない」ということを暗示しているのではないでしょうか。
「包帯」からは逸れちゃいますが、ワラと母親の繋がりも「ハム」という道具で象徴されているんだと思うんですがどうでしょう。母親はハムの製造工場で働き、ワラはスーパーでハム販売のバイトをしている…。「就職したら将来もここで働くことになる」という意味の科白が…ワラだっけ?シオだっけ?にあったような気がします。閑話休題


クライマックスシーンは二つ。自殺を図るテンポが〈包帯クラブ〉の面々によって「救われる」シーンと、ディノがトラウマに「立ち向かう」決意を固め、ツッコミに会いに行くシーンと。一つ目がちょっと安直で予定調和に見えてしまうのは、自分の性格がねじ曲がっているからか、はたまた最終的にディノがひとりの力でトラウマに立ち向かうに至る二つ目とのコントラスト故か。イヤ、一つ目も十分に美しいクライマックスであったわけですが、「自分が幸せであることが他人を傷つけることだってある」というテーマに対する答えとしては、「友達だもん」という科白で決着がつけられてしまう一つ目よりもやはりあの「手紙」の方がより説得的だと思ったのですよ。


ちょっとここは…と思った点。ギモの心の傷は、小学校の時に先生(男性教諭)に悪戯された「友達」の願いを聞いてあげられなかったことなわけですが、その後のシーンで酔っぱらったギモが実は「男好き」であるという本性を表した(あるいは酔った時の単なる悪癖?)というのはあんまりだと思います。しかも「葬式」の場面のモノローグでディノに「『友達』とはギモ自身ではないか?」と語らせておきながら…。引いてしまいました。これで★マイナス一つ。
また、主要な登場人物が皆「他者を救い、救われる」ことで自分の心の傷を乗り越えていくのに対して、ツッコミだけが自らの力のみで自らを救済し得ている存在になっちゃっているのが気になります。もちろん彼にも家族との関わりなど、映画では見えない部分でのストーリーがあるハズで、そこまで描いてられっか!というのも分かりますが、ちょっと登場の仕方がスマート過ぎですね。


技法としては、BGMの使い方、より具体的には「止め方」が上手かったですね。映像も綺麗でした。設定は秋か冬かな?途中のコミカルな部分と枯れた感じの映像が中和してバランスが取れていたと思います。