「困ったちゃん」小泉純一郎

やはり参拝したわけです。今こうやってこの件について書いていること自体が「右に曲がった人々」の思うつぼのような気がしてなりませんが、「アレな人は相手にしない」ではすまされない愚挙です。
この問題の論点は複雑なので、問題を彼の「言い訳」の内容に絞って書くと、今回の参拝に至った経緯について、彼は「戦没者への哀悼の意を表す」ことを動機に挙げ、次に「中国・韓国が行くなと言っているから行かないのはおかしい」と述べています。これまでの主張と全く同じ、些かのブレもないという点ではある意味感心しますが、これは明らかに「逃げ」です。
靖国は彼の言うように「国内の問題」であって、「近隣諸国の批判に屈しないために参拝する」というのは問題のすり替えです。昨日も書きましたが、靖国問題に限らずこういう単純化・二者択一論に騙され続けてきた五年間を振り返ると虚しさしか覚えません。彼及び彼の参拝を支持する人々の根底には、「『欧米』ではない・になれないという現実から目を背けるために『自分たちはアジアとは違う』ことを喧伝してマスターベーションばかりしてきた」近代日本人の心性が今なお息づいているのですね。大したモンだ。
靖国は「戦争に徴用され悲惨な死を遂げた」ことを「国(天皇)のために尽くして殉死した」という美事に転化する装置でした(そして今でもそう)。しかも民間人の被害者は祀らない、頼んでもいないのに台湾原住民を「英霊」として勝手に祀っている。神社側は神社側の信念に従って行っているのでしょうが、やはり現実のあり方として、あれは「戦没者(彼はどうだか知りませんが、私は民間人の被害者・朝鮮半島や台湾から徴発されて被害にあった人々も含めてこの言葉を使っています)全体」を追悼する施設ではありません。その意味で問題は小泉一人にあるのではなくて、戦後日本がずっと先送りにしてきたツケが回ってきたということであって、この点では私自身も当事者の一人としての意識を忘れずにこれからも考え続けて行く必要があると思います。小島毅氏ではありませんが、問題に向き合う必要を感じさせてくれたという点においては彼に感謝すべきかも知れません。
「『靖国』を争点にしたがっているのはマスコミや私に反対する勢力ばかりじゃないですか。この小さな問題を大袈裟にかき立てて」と彼は言っています。我々としては、彼が巻き起こしたこの問題を「小さな取るに足りないもの」と言ってのけられるような未来を考えるべきだと思います。もうお辞めになる方のことは放っておきましょう。しかし、虚しい。