木下鉄矢『朱子 〈はたらき〉と〈つとめ〉の哲学』

のちに体制教学化した「朱子学」ではなく、朱熹本人が語った言葉、経書に施した注釈から、彼自身が練りあげた哲学を読み解く一冊。

訓詁や経書解釈が苦手中の苦手な自分としては、朱熹が四書に施した注解テキストの精読を行う第Ⅱ部よりも、朱熹の思想が構築されてゆく歴史的文脈に関する第Ⅰ部が興味深かったです。
とりわけ朱熹の思想の根幹を成す「物」という概念について、「職」という語との関連からこれを「つとめ」(人が行うべきパブリックな活動)と捉え、さらに、各々に課せられた「つとめ」を行うことが社会の安定につながるという理想を描いていたという話は、本書でも指摘されている政治権力・権威の源泉とその行使の仕方に関する議論とも関係してきそうですし、あるいは権力行使の手段としての官僚機構を考える上でも、「物・職」という概念やそれに基づく世界観の形成過程との関わりで考えなければならないかも知れません。

一つだけいちゃもん。新法(青苗法)を巡る議論に触れたところで、王安石が民衆の主体的活力・債務意識に期待し、青苗銭の貸し付け・返済という「信用」(契約)がで成立する「信用秩序」を目指していたのに対し、反対の立場を取る司馬光・韓蒅らが求める秩序を、排他的・一方的な物への支配権の設定と保護に基づく「支配秩序」であるとしています。要するに、「貧農は能無しだから苦しんでいるだけ。富農は頑張ったから豊かになったのであって、彼らの富は守られてしかるべき。彼らが不利益を蒙るような所得の再分配を国家が行うべきではない」ということです。
しかし、新法の前段階として、富農や大商人、免役特権を有しているいわゆる中間層が小農民を収奪し、その結果、国家による小農民の掌握を基礎とする財政が機能不全を起こしている状況があった。これを打破して国家が経済・社会の末端を直接的に把握することが新法の目的です。つまり、社会をあるべき理想像に近づけるべく改変しようとし、その手段として実は「大きな政府」を目指したというのが新法体制の特質。だから、王安石は民衆間の「信用」に期待する一方で国家−民衆間においては「支配」を志向していたと言うべきで、その点からも「支配秩序」という言い方は誤解を招くんじゃないか、と思いました。