川嶋康男『凍れるいのち』

凍(しば)れるいのち (柏艪舎文芸シリーズ)

凍(しば)れるいのち (柏艪舎文芸シリーズ)

昭和37年12月、北海道学芸大学函館分校山岳部のパーティー11名は、冬山合宿に大雪山縦走を目指した。しかし、そこから帰還したのはリーダーの野呂幸司ただひとりだった。部員10名全員遭難、死亡。かたくなに沈黙を守る野呂に対し、轟々たる非難と呪詛が集中した。
その野呂が45年間の沈黙を破り、ついに今、遭難事故の全貌に迫り、その後の人生の軌跡を明らかにする−。
今日の幸せを生きる我々が本書から学ぶべきは、いのちのはかなさであり、その尊さであり、その重さであるだろう。

去年から細々と続けている「冬山モノ」読書。本書で扱われている遭難事故は、11名中10名が命を落とすという悲惨なものであり、その真相に興味を覚えて読んでみることにしました。
物語は唯一の生存者であった登山隊リーダー・野呂幸司氏の生い立ち、本人の証言から書き起こした遭難と生還の全貌、その後の氏の歩みという三つの部分から成り立っています。筆者が一番言いたかったのは「野呂氏が10人の仲間を死なせたという重荷を背負い、自らも後遺症を残しながら、あくまで前向きに生き続けている」ということだったのでしょう。そのメッセージは確かに分かります。
しかし、"黒い十字架"と氏自らが言う「『唯一の生存者』が向き合わねばならない葛藤」が十分に伝わってきたか、と言えば答えは「否」です。本書は基本的にほとんどを野呂氏の証言に負っています。「唯一の生存者」なのだから当然です。一方で、亡くなった部員の遺族や世論との間に相当の軋轢や感情の行き違いがあったであろうことは序章のエピソードからも容易に想像が付きます。こうした問題に対していかに野呂氏が立ち向かっていったか、この点が描かれていればもっと迫力があったのにな、と思います。
確かに大惨事を乗り越えて充実した人生を歩んでいる氏の生き方には感服します。しかし本書に対する評価としては「生き残った1名の視点からしか描き得ない」という限界を超え切れなかった、というところでしょうか。


奇しくも1月1日は、野呂幸司氏が生還したその日にあたります。