宮沢賢治4冊

新編 風の又三郎 (新潮文庫)

新編 風の又三郎 (新潮文庫)

新編 銀河鉄道の夜 (新潮文庫)

新編 銀河鉄道の夜 (新潮文庫)

注文の多い料理店 (新潮文庫)

注文の多い料理店 (新潮文庫)

ポラーノの広場 (新潮文庫)

ポラーノの広場 (新潮文庫)

ここしばらく宮沢賢治ばかり読んでいました。
記憶に残っている限りでの賢治作品との接点を挙げてみると、まず活字で読むより先にアニメ「銀河鉄道の夜」を見たんだと思います、子供の頃。アニメは1985年制作なので、多分小学生か中学生ぐらいだったのではないでしょうか。
余談ですが、「銀河鉄道の夜」何と実写化されていたとは。関東のみの上映で、しかももうすぐ終わるじゃないか!見たいような見たくないような…。閑話休題
前後して小・中学校の国語の教科書などで読んでいると思うのですが、次に記憶に残っているのは大学での講義。私の学部には宮沢賢治を研究している先生がおり、彼には女の子を中心にファンが多く、何だかその雰囲気に流されて*1履修しました。今回新潮文庫版を買った後で本棚を見てみるとその時買った筑摩文庫版『宮沢賢治全集』7・8が出てきたのですが、ほとんど読んだ記憶がありません。(苦笑)。いま引っ張り出して見てみると、異稿がたくさん収められているみたいです。せっかくだから読んでみよう。
で、この度、ふとした偶然から小6の国語の教科書に収録されている「やまなし」を読む機会があったので、それならまとめて読んでみよう、と思った次第。


とりあえず上記の新潮文庫4冊を読み終えたわけですが、「宮沢賢治とは」などとしたり顔で書く気にはなれません。深い。さしあたって特に印象に残っている作品を挙げるに留めます。

人間のみならず多くの生物が背負っている「弱者を喰うことでしか生きられないという宿業」をテーマにした作品。もっとも、このテーマは何もこの二作品に限らず賢治作品の随所に見られるものですが、特に印象に残ったものとして挙げました。
ちなみにJ.F.ガーゾーン『孤独なハヤブサの物語 (新潮文庫)』は、猛禽類が自分は小動物を殺めることでしか生きられないことに気付く、という点で「よだかの星」に類似しているが、その後のよだかとハヤブサ「カラ」の身の処し方は対照的です。洋の東西を問わず普遍的なテーマだけに、様々な「解答」を読んでみることを世の青少年には勧めたい。

子兎のホモイがひばりの子を助けた報酬として「貝の火」という宝物を手にしたものの、やがて慢心から身に災いが降りかかる。典型的な因果応報の物語と言えばそれまでですが、私が気になったのはホモイの両親の行動です。
天沢退二郎氏の解説では「やさしい母」と「毅然とした父親の言葉」が物語に救いをもたらしていると書かれています。しかし、この両親の行動は私にはかなり「身勝手」に思えるのです。
例えば、狐が盗んできてホモイに渡した角パンを、父親ははじめは「盗んできたものは食べない」と言って地面に投げつけ踏みにじっておきながら、次の日にまた狐が持ってくると今度は家族三人で食べ、さらに次の日には夕ご飯の支度を忘れていた母親は「一昨日のすずらんの実と今朝の角パンだけを喰べましょうか」と言い、これに父親は「うんそれでいい」とすら答えています。
何より、毎日ホモイが悪事を働く度に「お前はもうダメだ。貝の火も光を失った」とホモイを叱っておきながら、それでも「貝の火」が依然として輝きを保っていることを見るや一転して黙ってしまったり、挙げ句の果てにはしばらくすると笑って一緒にご飯を食べたりする…。両親もホモイとともに堕落していく存在として描かれているように私には思えてなりません。
ただ、こう解釈してしまうと、子供を導く存在であるはずの親ですら宝物の魅力や慢心といったものと無縁でいられない、ということになってしまい、この物語は本当に救いのないものになってしまいます。上記のような解釈は深読みしすぎなのかも知れません。

  • ビジテリアン大祭

菜食主義者の集まりに畜産業者や何やらが乗り込んできて菜食の是非について白熱した議論を展開するが…
物語の終わり方に「議論という行為に根本的につきまとう馬鹿馬鹿しさ」に対する皮肉を感じました。

  • 猫の事務所

「こういうこと、起こるよなぁ」と誰もが思うであろう物語。思わずかま猫に同情…するだけではいけないんでしょうな。「ビジテリアン大祭」同様、強烈な皮肉を込めた終わり方が印象に残っています。

上記のように原体験がこの作品のアニメ化されたモノなだけに、やはり一番強い印象を受けました。新潮文庫版の表紙に用いられている「碧色」は、この作品のイメージに良く合っていると思います。カムパネルラがいなくなったことに気付いたジョバンニの姿をイメージするだけで泣けてきます。
余談ですが、アニメ化に際して主な登場人物が人間ではなく猫の姿で描かれています。そのせいか、私にとってのジョバンニとカムパネルラは少年ではなく「中性的なイメージ」を伴って記憶されていました。で、今回読み直してみても、やはりそのイメージは拭い去れないままです。ジョバンニをはっきりと男性的な人物、あるいは少年として捉えて読むと、例えばザネリに父親のことを揶揄された場面や、最後に「ほんとうのしあわせ」を求めて生きていくことを決意する下りなども、違った印象を受けたのかも知れません。

  • 北守将軍と三人兄弟の医者

童話は声に出して読んでこそ、と思わせる一作。電車の中だったので出せませんでしたけど、声。

  • 土神ときつね

樺の木に好意を寄せる土神が、自分より才覚にあふれるきつねに嫉妬心を抱き、ついには殺害に至る物語。何かね、自分にもあるな土神的なところ、ってね…

  • 鳥箱先生とフウねずみ

猫大将は、
「ハッハッハ、先生もだめだし、生徒も悪い。先生はいつでも、もっともらしいうそばかり云っている。生徒は志がどうもけしつぶより小さい。これではもうとても国家の前途が思いやられる。」と云いました。

*1:「女の子を中心に」というところに流されたのではなくて!