沢木耕太郎『天涯〈6〉 雲は急ぎ 船は漂う』

旅はいつしか終わる。そして人生のどこかで、また別の旅が始まる。若者には若者の旅があり、大人には大人の旅がある――。(裏表紙より)

『天涯』カラー文庫の最終巻。フォトエッセイ「通過地点Ⅵ」は、これまでも何度か筆者が語ってきた「旅の適齢期」について。

 旅で食べる、ではなくて、旅を食べるためには、やはりその旅の適齢期に旅に出なくてはならないような気がします。
 もちろん、三十代には三十代を適齢期とする旅があり、五十代には五十代を適齢期とする旅があるはずです。
 以前、日本の六、七十代の高齢の方たちがベトナムを団体で旅行しているところを見かけたことがあります。これはとても楽しそうな風景でした。僕も、もう少し歳を取ったらああいう旅行をするのもいいなと思ったくらいです。
 しかし、です。二十代を適齢期とする旅は、やはり二十代でしかできないんです。五十代になって二十代の旅をしようとしてもできない。残念ながらできなくなっているんです。だからこそ、その年代にふさわしい旅はその年代のときにしておいた方がいいんです。(p.232~234)

要するに「感動するためには未経験であることが必要だが、一方で感動するためにはある程度の経験も必要で、両者のバランスが取れている時が『旅の適齢期』なのだ」というのが筆者の考えです。これに言わずもがなの補足をすると、「旅の適齢期」という言葉には数字で表される実年齢としてのそれに加えて、例えばその時点での身分とか家族・仕事との関係、あるいは自身の人間としての成熟度を加味した「人生をトータルで考えたときのタイミング」という意味も込められていると思います。だから実年齢二十代の時にすでに五十代のような旅ができる(あるいは「しかできなくなっている」)人もいれば、逆にいつまでも若々しい気持ちで旅を続ける(あるいは「成熟した旅ができないままでいる」)人だっているでしょう。


そう考えたときに、確かに人生においても「本当の意味での適齢期」というものは存在するな、と思います。「30までに結婚」とかいうくだらない意味での「適齢期」ではなくて(笑)。
私自身、以前は全く何とも思わなかったものに心を動かされる、ということが増えてきたと感じます。これは多分若い頃には未経験すぎて「感動するための経験」を持ち合わせていなかったからでしょう。逆もまた然り。若い連中と話を合わせるのがだんだん辛くなってきました(笑)。周りの若い人たちを見ていると楽しそうなんだけれど、自分もそのノリに合わせる自信がない。朝まで呑むなんてもう何年もやっていません。これは実年齢に加えて貧乏しているという「人生をトータルで考えたときのタイミング」が原因でもありますけど(笑)。


旅と人生と。
「旅の適齢期」に関する沢木さんの文章はこれまでに何度も読んだのですが、これまでは「だからオレも今できることをやろう」と漠然と考えるだけでした。しかし、私もそろそろ「もうすぐできなくなること」を指折り数えなければならない時期にさしかかっているのかも知れません。それは決して老け込む準備をするというネガティブな意図ではなくて、「できなくなってから後悔する」ことの哀しさがそろそろ解り始めてきたから、ということにしておこう。