今日の言霊・2006-09-26

 ところで、『十二人の怒れる男』である。一対十一から十二対〇に引っ繰り返す、あのヘンリー・フォンダ演じるところの陪審員第八号は、シナリオを戯曲化したものの中では次のような人物だと説明されている。
《物静かで、思慮深く、おだやかな男。どの疑問もあらゆる角度から検討し、常に真実を追究する。彼は他者に対する深い思いやりを持った強い男である。何よりも重要なのは、正義が行われることを望み、そのためには敢えて闘う男であることである》
 しかし、この正義感がいくつもの「逆転」を味わったあげくに培われたものだとすればいいが、もしそうでないとすると、この第八号という男性はひどく困った人物であるようにも思えてくる。「逆転」に晒されたことのない「正義なるもの」は、「邪悪なるもの」より始末におえないことが少なくないからだ。

沢木耕太郎『チェーン・スモーキング』