『ゲド戦記』

映画『ゲド戦記』オフィシャルHP

物語の舞台は、多島海世界"アースシー"。西海域の果てに棲む竜が、突如、人間の世界である東の海に現れた、それと呼応するかのように、世界ではさまざまな異変が起こり始める。世界の均衡(バランス)が崩れ、人々の頭が変になっていく……
災いの源をつきとめる旅に出た大賢人ゲドは、国を捨てた王子アレンと出会う。(オフィシャルHPより)

例によって原作は読まずに行きました*1。したがって原作『ゲド戦記』との関連性については何も分からないのですが、分からないことを差し引いても、やはりこれは「原案」である宮崎駿シュナの旅 (アニメージュ文庫)』の焼き直しだな、と思います。


(ここから先は映画及び『シュナの旅』の内容に触れています。)




シュナの旅』を読んだ人なら、既視感を覚える場面がいくつもあったと思います。アレンとハイタカ(ゲド)が訪れる街が『シュナ』の「都城」そっくりであること、入り口で奴隷を満載した車を目にするところ、など。奴隷として運ばれてゆくアレンをハイタカが救う場面で、他の奴隷に逃亡を呼びかけても誰も応じようとしない、という展開は、『シュナ』でヒロイン・テアが救出される場面と全く同じです。奴隷を運ぶ車まで同じ。
ストーリー展開にも類似点があります。物語の後半は、ヒーロー・アレンが魔法使い・クモによって支配されてしまい、それをヒロイン・テルーが救うという形になっているのですが、これも「黄金の穂を持ち帰ったものの心を閉ざされてしまったシュナをテアが支え、やがて二人は試練を乗り越える」という構図と同じ。
もちろん「原案」である以上類似点が多いのは当然で、そのことを批判するつもりはないのですが、『シュナ』は結構好きな話なのでできればそのまま映像化して欲しかったな、と思うわけです。地味な話なので興行的には厳しいんでしょうが。あるいは、執筆時からこの物語の映像化を切に願っていた父親の思いを、「ゲド戦記」というブランドに仮託して息子が実現した、ということなのかも知れません。


前置きが長すぎた。さて、映画全体についてですが、前半の伏線の張り方に比べ、後半はやけに単純な所に話のオチを持って行ってしまったな、という感じでしょうか。
前半では、異界に住むはずの龍が共食いをする冒頭の場面、アースシーの至る所で起こっている天変地異、多くの魔法使いが能力を失っていることなど、世界全体に異変が起こっていることが示されます。ところが、その異変にどうやらクモが関わっていることが明らかになってからは、急に物語が矮小化されてしまったように思われます。クモが不老不死を求めて世界の秩序・バランスといったものを崩しにかかっていることが異変の要因だったらしいのですが、結局クモのやっていることが「クモ個人の欲望のため」としか思えず(もちろんそれは世界を支配するということにつながっていくんでしょうが)、最終的にはクモ対アレン・テルーの対峙のみでクライマックスを迎えてしまい(ハイタカすらでてこねぇw)、前半の伏線が全く活かされていない、という印象を受けました。テルーが実は龍だった、という点に至っては話の展開からは全く必然性が見えてきません。
原作を読んでみればもう少しディテールが分かるのかも知れませんが、かなりの消化不良を起こしているな、と感じました。


細かい部分の世界観は、父親、というかジブリ作品の伝統を受け継いでいるな、と思います。「生と死」「光と闇」「言葉と沈黙」といった対比のさせ方は漫画『風の谷のナウシカ』を彷彿させますし、魔法を使うには相手の本当の名前が必要である、という設定は、千尋が名前を奪われて湯婆婆に使われるという『千と千尋の神隠し』で用いられたもの。これにこの物語独自のメッセージ性が加われば良かったのにな、と思います。


最後に全くの独り言として、ほとんどの人には何故そんなに怒っているのか分からないであろう「ここだけは許せない」を。「人と竜はそんなに簡単にひとつになれない」。(心当たりのない方は読み飛ばしてください)


さっきも書いた通り何故だか分からないけれどテルーは実は龍で、最後はテナーの家に住み、アレンは父殺しの償いに国に帰るものの一応二人は「ハッピーエンド」を迎えています。二人は確かに様々な困難を乗り越えて理解し合ったのですが、それは二人が同じ人間であるという前提なら納得できる、というもの。しかし冒頭で龍が人間界に姿を現したことをあれだけ大きく扱っていたわけですから、話は別。異界に住む者同士が安易に理解し合い、共存することができる…、こういう予定調和は正直見たくありません。「人と竜はそんなに簡単にひとつになれない」。

*1:「原作を読むことによって形成されるキャラクターイメージが、映画のキャストと懸け離れているとガッカリする」という理由から、原作を読んでいない場合はそのまま読まずに映画を見る、というのが私の鑑賞方法でして。