天才・才能・資質

札幌は夜になって雨が降り出しました。明日はかなり降るらしく、日中間違いなく出歩く予定なので、今から憂鬱です。

三木清『哲学ノート』に、こんな文章を見つけました。

さてカントは、ニコライによって伝えられる人間学講義の中で、人間の心を資質、才能及び天才に区別した。資質は物を把捉する力をいい、才能はしかし物を生産する力をいう。資質は教育されることの容易さであり、才能は物を発明することの容易さである。……生徒に必要なのは資質であるが、教師にはしかし才能が必要であるとも彼はいっている。教師は自分で形態と作品を産出し得る者でなければならぬ。才能にしてすでにそうであるとすれば、天才はもちろん物を作るという見地から見らるべきものである。天才は創造的才能である。

続いて、天才は生得の物であり、あらゆる規則なしに物を作るものであると論じ、さらにカントの言葉を引用して、

「学問の発明には天才が、その修得には資質が、それを他に教えるには才能が必要である。」

とあります。つまり、未知の物を創造するのが天才、既知の物を利用し物を作りそれを教育によって伝えるのが才能ということになるでしょう。「生徒に必要なのは資質」ってのは、本当にそうだよねw

これを自己流に「才能の維持には生産・教育の継続が必要」と捉え、我が身を省みてみるに、日々の活動における「生産・教育」のバランスが、最近全く取れていない。言い換えると「本来やりたいこと」がちっとも進まず(というか進められず)、「それをするために現実を生きること」に多くの労力が奪われている状況。本来は生産した物を教育し、教育することを通じて新たな着想のヒントを得る、という相互補完の関係が理想的なのですが、いま手掛けている「教育」では既知の物をそのまま喋っているだけ。「生産」しないと「教育」もできなくなってしまう。

さて、それでも明日はやってくるので、時間を大事に頑張りますか。