竹内整一『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』

日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか (ちくま新書)

日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか (ちくま新書)

確か「総合講義」という名前だったと思います。H大教養部にはかつて、あるテーマに基づいて文系・理系の別を問わず様々な学部の教官が喋る、というアラカルト形式の講義がありました。今もあるのでしょうか。
もう全体のテーマすら忘れてしまったその講義の中で、どのような専門だったか、「さようなら」という別れ言葉の語義について話してくれた先生がいました。「さようなら」は「左様であるならば」から派生した言葉である、と。
本書を本屋で見かけたとき、その事が思い出されて、思わず購入した次第です。
本書の内容をかいつまんで記すと、次のようなことになるかと思います。


世界的に見て、「さようなら」のように接続語を語源とする別れ言葉は珍しく、そこには日本人の死生観・世界観が反映されている。「さようなら」の語源の「さらば(そうであるならば)」には、これまでのことを「左様である」と確認し(決別し)た上で新しいことに移行していくという日本人の心性が現れていて、これが死生観にも反映している。
また、「さようなら」には「そうならなければならないならば」という解釈も成り立つ。この解釈には内なる自分(=「みずから」)と外の世界(=「おのずから」)に対する認識が関係していて、別れを「みずから」には抗し得ない「おのずから」によるものだと捉える心性の現れである。


内容がかなり多岐に渉っているので、以上のような要約が正確かは甚だ心許ないのですが、私には、「そうならなければならないならば」としての「さようなら」を論ずるにあたって用いられた、「みずから」と「おのずから」の境界の曖昧さと、「あきらめ」という言葉が持つ二面性の説明が興味深かったです。
別れや終わりに限らず不可避なことは様々あれども、それを自分の力を超えた大いなるものの仕業として敗北してしまうのか、それともその力を所与の前提として積極的に受けとめるのか。同じ「あきらめ」という言葉でも、その後の身の処し方で意味が大きく異なってきますからね。
本筋から外れた所が印象に残った、という何ともしまりのない内容ですが、以上でレビューを終わります*1

*1:というこの言葉も、「先行の「こと」を終え、新しい「こと」に立ち向かうという姿勢」の表れらしい。確かに「以上です」がない講義や研究発表って、何かヘンな感じがするもんね。